道端に落ちてるバナナはただのゴミ、ゲームをプレイする態度について

 
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道端に落ちてるバナナはただのゴミ、ゲームをプレイする態度について

 
 
家の目の前に、腐ったバナナの皮が捨てられていた。
道端に落ちてるバナナはただのゴミ
道端に落ちてるバナナはただのゴミ
普段ならこんなもの全く気にならないが、これを見た時にとある芸術作品を思い出した。アメリカのどこかの美術館で展示されていた、「バナナを壁に貼り付けただけ」の作品だ。普段アートに興味がない人も、もしかしたらどこかで見たことや聞いたことがあるかもしれない。作品自体は、バナナをテープで壁に貼り付けただけのそれ以上でもそれ以下でもないものなのだが、この作品が有名になったのはその落札価格である。その額なんと1300万円。…たった一本のバナナが。
 
事件はそれだけでは終わらない。実はこの落札されたバナナが、展示中にとある別のアーティストによって「腹ぺこアーティストによるパフォーマンスだ」と食べてしまったのだ。
David Datuna氏のInstagramより引用
ツッコミどころは山ほどあるが、この作品を落札したコレクターはどうなったのか。後日別のバナナが用意され、同じようにテープで貼り付けられた状態で届いたそうだ。この事件に関して、コレクターはどんな気持ちなのだろうか。さすがにこれを落札した本人も、バナナは食べ物であり時間が経てば腐ってしまうことは理解しているだろうから、絶対に「あの」バナナしか許さないということでもないだろう。しかし、これがホームランボールだったらどうだろうか?とある少年が幸運なことに、大谷選手が打ったホームランボールをゲットした帰りに、偶然なくしてしまったとする。当然大泣きするだろう。そしてそれを見かねた父親が、新しいボールを買ってあげるから機嫌を直してくれと言っても、その子供が泣き止むことはないだろう。そのホームランボールにこそ価値があるのだから。
 
話をバナナに戻すと、この自称空腹のアーティスト曰く、「僕が食べたのはあくまで作品のコンセプトであり、破壊行為ではなくパフォーマンス」だとのこと。正直よくわからないが、全部ひっくるめてこれがアートということなのだろうか。もちろんジャンルとしては、コンセプチュアルアートと呼ばれるものなのだろうが、別にこの一連の騒動や作品に関しては個人的に全く興味はない。
 
大事なのは、このバナナがギャラリーという空間で「展示」されていた、ということ。当たり前だが、このバナナは作品として展示されていたから皆が鑑賞していたし、食べられたことがニュースにもなった。そして1300万円という高値で落札もされた。ではもしも、一本のバナナが道端に落ちていたらどうなるだろうか?
 
答えは簡単で、それはただのゴミである。道端に落ちているバナナを見て、「なんてことだ、これは壮大なアート作品だ!」なんて言い出す人がいたとしたら確実に頭がおかしい奴に違いない。同じように、この床に落ちているバナナをわざわざ1300万円払って持って帰りたい人などいるはずがない。なぜなら、そのバナナはゴミなのだから。
 
つまり、そのバナナというのは展示されることによってはじめて意味を持つのであって、バナナというものをどのように私たちが捉えるのかが重要である、ということだ。同じバナナでも、ゴミにもなりえるし、1300万円の芸術作品にもなりえるのだ。
 
この話は、ゲームにも通ずるところがあると思う。ゲーム研究と美学を専門とする松永伸司氏は『ゲーム・ミーツ・アート:ビデオゲーム・アヴァンギャルドの可能性』の中でこのように書いている。
 
もちろん、前衛的なゲームは前衛的なものとして解釈されなければ意味がない。芸術映画を娯楽として見れば退屈な駄作になるのと同じように、アートゲームをふつうのゲームとしてプレイすればただのクソゲーでしかない。前衛的なゲームから豊かな意味を引き出すには、作者の工夫に目を凝らし、作品自体が持つ力を吟味する意識的なプレイ――つまり批評的なプレイ――が必要である。
 
プレイヤー側にある程度批評的なプレイが求められるゲームの例を挙げるとすれば、David OReilly氏の「Everything」ではないだろうか。AUTOMATONによる彼へのインタビュー記事によると、「このゲームが持っているリスクは、おそらくだけど、ゲーム自体は『重要なのはこれです』とは言ってくれないこと。プレイヤーが何を重要だと見出すかにかかってくるんだ。」と彼は語っている。確かに、このゲームを一切の前情報もなく普通のゲームとしてプレイしても、作者の意図を十分に汲み取ることは少し難易度が高いといえる。
《Everything》Steamのストアページから引用
《Everything》Steamのストアページから引用
批評的なプレイとは、それはつまりプレイヤーの一種の態度のようなものだろう。では、具体的にプレイヤーの態度を変える手段(ゲームの外側で)とはどのようなものが考えられるのか。最も代表的で平等なのは、Steamなど販売元のストアページにおける情報だろう。しかし、これは個人的には不十分というか、あまり適した手段ではないように思う。というのも、Steamでストアページ情報を掲載するにあたり、運営のValve側から「ストアページの欄には、あなたのゲームでプレイヤーが実際に何をすることができるのか、をできる限り動詞を使って説明することをおすすめします」と注意書きがされている。実際に自分もストアページの申請で、抽象的な内容を書きすぎたせいか、「もう少し具体的に、このゲームで何ができるかを記載してください」とリジェクトをくらってしまった。
 
他に考えられるのは、ゲームメディアという存在だろうか。たしかにこれは、プレイヤーの態度を変える有効な手段の一つではないかと、個人的には思っている。やはりゲーム体験そのものだけでは伝えられない(時には伝えるべきではない)作品の意図などは存在するし、そのゲームのみが作品なのではなく、ゲームを作るまでのプロセス全体を含めて一つの作品として捉えることで、新たな価値が生まれる場合もある。言い換えれば、ビデオゲーム制作をひとつのドキュメンタリー映画のようなものとして解釈するようなものだろうか。そういう意味でゲームメディアは、作品の制作経緯などの補助的な情報を、幅広いプレイヤーに提供することができる。
 
そして、開発者個人ができる努力として、自分の場合は、この開発ブログがその役目を果たしてくれるのではないだろうかと考えている。前作の「Black Cycle」をリリースした時には、このブログで書いた内容をゲームメディアの方々が記事にしてくださったことで、より多くの人に制作背景などについて知ってもらうことができた。個人のブログというのは、ゲームメディアと比べると拡散力という面で圧倒的に劣るので、非常に助かっている。
 
とは言ったものの、いくら外側の情報ばかり整えても実体がしょぼければ意味がない。いや、ないことはないが、悪い意味でビデオゲームがアート化してしまう。要は作品制作と同時に、批評的なプレイを促す努力を、バランスよく考えていく必要があるということ。アーティストがその辺の道端にバナナを落として、通行人に「これアート作品だからね!」と言っても、大抵の場合は変人扱いされてしまうように、ある程度の歩み寄りは必要なのかなと思う。もちろん、その路上でバナナパフォーマンスをしているアーティストの作品を見て、「素晴らしい!」と思える感度の高い人間はいるだろうが、自分が個人的に対象としているのは、日常生活において日頃から問題意識を持っていない人たちへのアプローチであり、それこそがアートよりもビデオゲームが持つ強みなのではないだろうかと思っている。
 
次回作のWhite Cycleでは、企業や政府よりも力を持った消費者たちによる新しい監視社会をテーマに、私たちの社会の別の可能性を描いていく予定だ。「もしも消費者が最も権力を持っていたら?」というシナリオを通して、現在や未来について考えるきっかけとなるゲームになればいいなと、日々試行錯誤を続けているところである。完成時期は未定だが、とりあえず今年の夏頃にはSteamのストアページをオープンするつもりである。White Cycleの序章的な立ち位置となる前作のBlack Cycleは、現在Steamで販売中なので気になる人はぜひ見てみてほしい。
 
 
 
2023/03/18